▶伊能忠敬が歩いた金沢八景

2022年7月18日 廣瀬隆夫

毎日新聞に「伊能忠敬を歩く」という連載があります。36回目は、「金沢八景 松並木の海岸線 今は昔」と題して六浦や野島の話が出ていました。
【毎日新聞連載 伊能忠敬を歩く 36 金沢八景 松並木の海岸線 今は昔】
https://mainichi.jp/ch180515653i/没後200年・伊能忠敬を歩く
https://itami-yellzaidan.com/content/wp-content/uploads/2022/07/伊能忠敬の記事.pdf

伊能忠敬は、千葉の九十九里の生まれ(1745(延享2)年) で、55歳から日本全国を測量を行い、17年かけて『大日本沿海輿地全図』を完成させました。今は、人生100年と言われていますが、当時は人生50年の時代ですから、その決意は並大抵のものではありません。73歳で亡くなるまで、日本地図作りに人生のフィナーレを捧げました。忠敬は、「測量日記」というものを付けており、まさに足跡を残しています。200年以上前に伊能忠敬が金沢八景の近くを歩き回っていたのかと思うとロマンを感じます。
【伊能忠敬の測量日記】
https://www.inopedia.tokyo/database/diary/
【伊能忠敬の生涯】
http://www.sawara.com/tadataka/syougai.htm

その日記の中に、金沢区の町屋村を早朝に出発し、村役人の案内で野島や六浦を通り浦郷村に泊まり、そのとき、「一覧亭」または「四方亭」という場所に上って測量し昼食をとったという記述があるそうです。金沢八景には、金龍院の裏山に「九覧亭」という見晴らし台が残っています。ここから、金沢八景の八つの名所と富士山を合わせて九つの景色を見ることができたそうです。

九覧亭

「一覧亭」は、金沢八景を一望できる場所だったそうです。大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)には、確かに「一覧亭」の名前があり、洲崎の対岸のように描かれていますが、野島や夏島、烏帽子(えぼし)岩の位置関係や海岸線の変化を考慮すると室の木のあたりと考えられるようです。

伊能忠敬は赤い線を歩いています

横浜金沢観光協会のホームページによりますと、室の木の辺りは、江戸時代には眺めの良い場所として「四望亭」と呼ばれる所が近くにあったと書かれています。この「四望亭」が、忠敬が日記に書いている「一覧亭」または「四方亭」ではないかと推測できるのです。
【横浜金沢観光協会のホームページ ジープ山】
https://yokohama-kanazawakanko.com/course/course_list/course006/

横浜金沢みてあるきのホームページ(http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/)には、四望亭眺望圖 (新編武蔵風土記稿)という絵が出ています。この手前のこんもりした山には人が描かれており、ここからであれば、金沢八景が一望できたのではないかと思います。
【横浜金沢みてあるきのホームページ 四望亭】
http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/muronokian.html

「四望亭」だけでなく、野島の近くは、戦時中、山々は崩され、海は埋め立てられてしまいました。烏帽子岩の海軍航空隊の飛行場建設のため切り崩されてしまいました。野島にも、飛行機を格納するための大きな横穴が掘られています。「四望亭」があった室の木の辺りは、ジープ山と呼ばれており、戦後、進駐軍の兵隊がジープを乗り回していたところからこう呼ばれるようになったそうです。

戦争がなかったら、金沢八景の美しい景色が残っていたのかと思うと残念でなりません。金沢、横須賀には、人類の負の遺産である戦争遺跡がたくさん残されています。今でもロシアのウクライナ侵攻が続いていますが、破壊と殺人を正当化する戦争という愚行は一刻も早く収束してもらいたいと願っています。

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